とある刑事の反転治療

「どうしてあんたが!!」
 俺は『その人』に向かって怒鳴った。何が正しいのか、何がそうでないのか、全くわからな
かった。ただ、目の前に叩きつけられた事実、それが奇妙な既視感を持った現実だと言う事だ
けは混乱した頭でも理解出来ていた。
「俺はもう、この刺激無しでは飯も咽喉を通らなくなっちまった……」
 目の前に立つ『その人』はいつもと同じように――いつもと変わらないままの――少しだけ
憂いのある笑みを浮かべていた。
「どうしてだよ!? 答えてくれ、副島さん!」
 俺は銃を構えたまま、もう一度叫んだ。
「さて、どうしてだろうな……」
 その人――副島さん――は今にも降り出しそうな空を見上げると、自嘲気味に呟いた。
「どこかで、歯車が狂っちまったんだろうな……」
 副島さんがそう答えるであろう事は、俺にもわかっていた。わかっていたが、納得など出来
なかった。
「納得がいかないか? そうだろうな……。俺自身が、その説明に納得なんてしていないんだ
からな……」
 副島さんはそう言うと銃を抜いた。
「俺はっ! あんたを尊敬していたんだ!」
「知っているよ」
「俺に、半人前にさえなっていなかった俺に、刑事としてのイロハを全て叩き込んでくれたの
は、あんただった!」
 俺の声を耳にすると、副島さんは異常なまでに冷たい視線を俺に叩きつけてきた。
「それがどうした?」
 自分の両手が震えているのが、やけにはっきりとわかった。
「それなのに、何故だ!」
「何度も言わせるな」
 副島さんの声に俺の肩が震えた。
「今の俺とお前は『犯罪者』と『刑事』だ。それ以上でもそれ以下でもない」
 その言葉と共に、すさまじい轟音が響いた。副島さんの手にしていた銃から放たれた弾丸が
俺の髪を掠めていった。
「次はお前の胸に撃ち込む。心配するな。意識が残る様に撃つ自信はある。お前が動けなくな
ったら、お前の両手の指を一本ずつ切り落とす。今まで散々にいじってきた、人間という名前
の『肉の塊』と同じようにな」
「副島さん!」
 俺はありったけの想いを込めて叫んだ。
「しつこいよ、お前」
 その想いは届かなかった。副島さんは静かに銃を構えると、今まで見た事も無い程の――本
当に無機質で――冷たい表情を浮かべていた。その後、俺がどう走ったのか、そんな事はよく
覚えていない。覚えているのは、いつの間にか降り出していた雨。膝をつく副島さんと、その
眉間に銃を突きつける俺。俺の胸に突きつけられた副島さんの銃。
「自首、してくれ」
――でないと、俺はあんたを殺しちまう。
 俺は後半の言葉を飲み込んだ。しかし、副島さんは静かに笑うと、微かに首を横に振った。
「お前は『こっち』に来るなよ、南雲……」
 そう口が動いた瞬間、副島さんの指に力が入った。
 頭の中が真っ白になっていた。
 全てがスローモーションのような中、俺は確かに引き金を引いた。
 そして二つの銃声が響いた。
 俺の胸から流れ出る血液と、額から血を流しながら倒れ込む副島さんの姿。
 不思議と――涙は一粒も流れなかった……。

「……ぱい! 南雲先輩!」
 自分を呼ぶ声に目を覚ますと、目の前に脚線美があった。それに手を伸ばした瞬間、乾いた
音と、手に鋭い痛みが走る。
「セクハラですよ、先輩!」
 声の主は片桐京子。今年から俺とコンビを組む事になった、新米の女刑事だ。
「なんだぁ、片桐?」
 まだ寝ぼけた声を出すと、京子は腰に両手を当て、いかにも『私は怒っています』という態
度をとる。
「なんだ、じゃないです! 事件ですよ、事件!」
 その言葉に俺は片手をヒラヒラさせると、もう一度目を閉じる。
「あー、南雲刑事は先週、どこぞの新米刑事のしでかしたミスを拭う為に、今週一杯、署内勤
務でございます」
 そう言った瞬間、今度は俺の脳天に鈍い痛みが走る。
「いい身分だな、南雲」
 俺が再び目を開けると、申し訳なさそうに立つ京子と、鬼のような形相で俺の頭に鉄拳を振
り下ろした課長がいた。
「お前向けの事件だ。でなきゃ、わざわざ謹慎中の刑事に事件を回すと思うか?」
 課長の言葉に俺は起き上がると、ソファーに掛けてあった上着に袖を通す。
「俺向きって言うと、やっぱり『あれ』ですか?」
 わかりきった事を聞く。
「ああ、そうだ。片桐には少し気の毒だがな」
 俺と課長のやり取りを不思議そうに京子が見ている。
「……仕方ないですよ。俺とコンビを組むと決まった時点で、そんなの決まったようなもので
すから」
 俺はそう言うと、京子の方を向く。
「行くぞ、仕事だ」
「はい!」
 元気に答える京子。しかし、それが『現場』にたどり着いた時、正反対の位置になる事を京
子はまだ知らない。

 俺の名前は南雲遼平。かれこれ六年は刑事として飯を食っている。と、言えば少しは格好が
つくのだろうか? 公務員試験を合格して、いきなり捜査一課に配属されて、気付けば二十代
も終わりになろうとしていた。自分で言うのもなんだが、顔は結構よい方だ。黙っていれば行
き交う女の十人に五人は俺の方を振り返る。声をかければ、大抵は食事くらいまでこぎつけら
れる。だが、刑事という仕事を知ると、その内の八割はその場で身を引く。残った二割もせい
ぜい一晩の仲が良いところだ。かくて、俺にはこれといった女はいない。もちろん、俺自身、
そういった女を自分から積極的に作ろうなんてまったく考えていない。誰かに縛られるという
のはあんまり好きじゃない、というのも本音の一つだ。

「こいつは……」
 俺はその『現場』に案内されたその瞬間、言葉を失った。
「うっ……」
 俺の後ろでは京子がハンカチを口に当てて顔を背けている。
「刑事が顔を背けんじゃねぇ! それとゲロするんだったら外でやれ!」
 俺の声も必要以上に大きくなっている。案内されたのは、ごく普通のワンウィークマンショ
ンの一室。そこにそれはあった。それ、というのは、この部屋を借りた本人だと思う、と管理
人が言っていた、肉の塊の事だ。しかし、部屋の状況は異常だ。壁と言う壁にまき散らされた
被害者の脳漿と血液。引き裂かれた腹から出された内臓が首を巻いている。右足の膝から下も
無い。いわゆる『猟奇殺人』の現場。一瞬、現実なのか、悪い夢を見ているのか、わからなく
なるような感覚にさえ襲われる。
「久しぶりに、と言うべきだろうな」
「随分前に、電車に飛び込んで死んだバカの現場検証に立ち会った事があるが、あの時以上だ
な……」
 一緒に来た鑑識の山下が俺に耳打ちし、それに俺も同意する。あの時は二週間、肉を受け付
けなかった。今回は多分、向こう一ヶ月は肉が食えないに違いない。京子の方は、もしかした
らベジタリアンに転身するかもしれない。はっきり言って、この状況で『吐くな』と言う方が
酷だろう。もちろん、俺自身、胃の中から何かがこみ上げてくるような感覚を、無理やり押さ
え込んでいる。現場の外側で誰かが入ってくる事の無いように見張っている警官も、極力こち
らを見ないようにしている。
「で、ガイシャの肉親とかに連絡は?」
 一通り部屋を調査した後、部屋の玄関傍にいた警官の一人にそう尋ねる。
「は、一応、連絡の方はつけましたが……」
 歯切れの悪さは納得できる。何にせよ、この平和な日本で、どこぞのB級スプラッター映画
の一コマのような犯罪が行われたのだ。
「よし、遺体の方は鑑識の方に回してくれ。それと、わかっていると思うが、出来る限り壁に
こびり付いているやつもこそぎ取るようにしてくれ」
 俺の指示に警官は心底嫌そうな顔をする。普段、そんな顔をしようものなら、間髪いれずに
どつき倒すところだが、さすがに今回はそこまで出来ない。
「嫌なのはわかる。だが、仕事と割り切ってくれ」
 俺の言葉に不承不承頷くのを確認してから、俺は京子の方に向き直る。
「おら、さっさとしろ! 今から付近の聞き込みだ!」
「……は、い……」
 京子の力の無い声が俺に答える。

 一通り聞き込みが終わった後、京子は車に乗り込むと、俺の方に顔を向ける。
「先輩……」
「あん?」
 沈みに沈みきった声に、俺は僅かに京子の方に顔を向けた。
「あれ、現実、なんですよね……?」
「そうだ」
 京子の言葉に即答すると、ポケットからタバコを取り出して、口にくわえる。
「……刑事、辞めたくなったか?」
 俺はタバコに火をつけると、苦味と辛味の入り混じったような微妙な刺激が舌を刺す。一度
煙を吐き出すと、京子に声をかける。
「そう思うのも無理はないな。お前はこの間まで『こういった事件(もの)』とは関係の無い世界にい
たんだ。だが、刑事になった以上、今回ほどではないにしても、多かれ少なかれ、こういう現
場に出くわす事がある。それとな、片桐……」
 タバコの火を消しながら俺は呼吸を一つ置く。
「ここでやめたら、課長に『これだから女刑事なんて反対したんだ』と言われるに決まってい
るぞ?」
 その言葉に京子は力無く頷く。
「先輩は……」
「ん?」
「先輩もそう思いますか……?」
「あぁ、ここで辞めるなら、な……」
 京子の言葉に俺は頷くと、泣き出しそうな京子の頭に手を置く。
「だが、初めてにしては我慢したよ、お前は。俺が初めてああいった現場に立ち会った時はモ
ロに戻しちまったし、大抵はそうなる。お前みたいに我慢できた奴は、そうはいねぇよ」
 実際、今回も俺は吐き出しそうになった。ただ、そこで吐き出さなかった俺と、吐いた京子
の『違い』は、それまでに、そう言った凄惨な現場に立ち会った事があるか無いかという、経
験の差に過ぎない。
「気分が悪いのなら、今日はこれで送っていくぞ?」
 俺の言葉に京子は首を振った。
「いえ……大丈夫、です……」
 我慢している。だが、それはあえて口にはしない。その代わりに車のキーをまわすと、車を
発進させる。
「鑑識の方にいくが、覚悟はいいか?」
 俺の言葉に一瞬だけ京子の肩が震え、唇をかみ締めると小さく頷く。見た目に反して、度胸
だけは良い。俺はそう思うと京子の評価を僅かに上げる。
「それとな、片桐」
「はい……」
 俺は一呼吸置くと、新たに煙草をくわえる。
「たいていの場合、ああいった『猟奇殺人』という分類の事件には『続き』があるから覚悟し
ておけよ……」
 赤信号で車を止めてから、俺はシガレットライターで煙草に火をつける。
「続き、ですか……?」
 京子の表情が強張るのが目の端に入る。
「ガイシャの遺体で気付いた点を上げてみな」
 はっきり言って酷な質問だ。こいつはそれほど遺体の情況を見ていないだろう。
「……内臓が、首を巻いていました」
「それから?」
「……脳漿と血液が壁に……」
 意外とよく見ていやがる。
「あとは?」
「……すみません……これ以上は、覚えていません……」
 首を垂れる京子に俺は小さく首を振る。
「初めて、ああいう現場を見たにしちゃ、上出来だ。とりあえず、後はガイシャの右膝から下
が無くなっていた事だが……」
 俺は目的の場所に車を着けると、エンジンを切る。
「それがどう言う事を示すのかは、自分で考えてみな」
 素早く車から降りると俺は歩き出す。京子は慌てて俺の後を駆け出すと、すぐに俺の横にた
どり着く。
「どう言う事、ですか?」
「言っただろ、自分で考えろ、ってな」
 俺の言葉に京子は少しだけ曇った表情をした。

「ったく、あんたが持ってくる事件はどうしてこう、奇怪なのが多いのよ!」
 開口一番、こう言ったのは水島加奈子。俺が刑事課に配属されてからの付き合いで、俺が唯
一男女の関係を抜きにして付き合える、と思う女だ。もっとも、向こうがどう思っているかは
知らないが。
「文句なら課長に言ってくれ」
 俺はコーヒーを口にしながら答える。
「そりゃ、言ったわよ。何で、南雲の担当する事件はこんなのばっかりなのか、ってね」
 言ったところで現実が変わるわけはないと思う。そもそも、課長が『いの一番』で俺を名指
しで指名してくる事件は、必ず『猟奇的な殺人事件』なのだ。
「で、そっちの子が新しい相棒?」
「あ、はい! 片桐京子です!」
 俺と加奈子のやり取りに圧倒されていた京子は突然、声をかけられて慌てて大きな声で返事
をする。
「で、あなた、処女?」
 いきなりの言葉に京子の顔が真っ赤になる。
「そうなんだ。だったら……」
 加奈子の言おうとしている事に気付き、俺が何か言おうとした瞬間、加奈子の手が俺の口を
塞ぐ。
「こいつには気をつけなさいよ?」
 俺の肩越しに声を飛ばす加奈子に京子は首をかしげる。
「あら? こいつの噂、知らないんだ?」
 加奈子の手を振りほどこうとするが外れない。
「書いた始末書の数は数知れず。ついでに食べた処女の数も十人じゃ下らない。女という風に
範囲を広げたら、百人近く抱いてんじゃないかしら?」
 加奈子の言葉に京子の視線が冷たくなる。
「こういう『厄介な事件』を解決する能力は高いから、首は切られないけど……」
 加奈子はそう言いながら俺の口から手を離す。
「何吹き込んでやがる、この馬鹿力!」
「あら、私は事実を言っただけよ」
「何が事実だ! 誇張しやがって!」
「って、事は、多少、事実は含まれているんですね?」
 俺の後ろからした京子の声が、やけに厳しい。
「か、片桐、それはだなぁ……」
「先輩、見損ないました!」
 京子の平手が俺の右頬を捉える。効果音を表記してもいい位に小気味のいい音を聞いて、加
奈子は声を出して笑い出した。
「よかった。元気出たわね」
「え……?」
「あまりに元気がないから、少し元気を出してあげようと思ったの」
 加奈子の言葉に、京子は俺に頭を下げようとする。
「あ、そいつに頭下げる必要はないわよ。事実だから」
 パタパタと手を振る加奈子に京子は顔を上げると、小さく笑い出す。
「……で、ガイシャの死因とかはわかったか?」
 俺は頬をさすりながら加奈子に尋ねた。
「そうね……死因は恐らく出血多量による失血性のショック死。内臓の乾き具合とかから考え
ると、生きたまま腹部を引き裂かれて、そのままにされた、と考えるのが妥当ね。それと、右
足は死後切り離されたものと思われるわ。あと、内臓に関してだけど……」
 さらりと言ってのける加奈子に京子はさすがに一歩引いている。
「なんだ?」
 俺が先を促すのを確認してから、加奈子は手にした書類を読み始める。
「内臓の一部が無くなっているわ。無くなっているのは……腎臓の片方と、卵巣、それと子宮
と膣。脾臓が半分。はっきり言ってまともな精神の持ち主とは思えないわね」
 溜息をつきながらページをめくって、さらに言葉を続ける。
「あと、心臓に歯形が残っていたらしいから、そこから犯人の割り出しを急いでいるわ」
 最後の一言に俺は眉を吊り上げた。
「それ、本当か?」
「鑑識が担当刑事に嘘言って、一体何の得があるのか教えて欲しい言い方ね、それ」
 確かに加奈子の言う通りだ。この状況で鑑識が嘘を言うのは明らかに不自然だ。
「悪かった。まぁ、事実確認というよりも、俺の中に勝手に疑問が湧いて、勝手に口を動かし
た、とでも思っておいてくれ。だが、一体どうやったら歯形なんか残るんだ?」
 俺の言葉に加奈子は俺のワイシャツのボタンに手を掛ける。
「お、おい?」
 俺の文句を全く無視して、加奈子は下から三段目までのボタンを外すと、机の上に置いてあ
った頭蓋骨の模型を手にする。
「あんたがガイシャと仮定するでしょ? この模型が犯人の頭。で、こうしたと考えるのが…
…」
 そう言うと、加奈子はワイシャツの隙間から模型を突っ込む。
「一番合理的な考え方。本当は心臓を生きたまま取り出そうとしたのかも知れないけど、その
辺の事情は、犯人ならぬ私には見当がつかないわね」
「つまり、どちらにせよ、心臓に噛み付くのが目的で、腸を外に出したってのか?」
 俺が笑いを堪えながら言うのを見て加奈子は頷く。
「そうね、繰り返しになっちゃうけど、その辺は犯人をさっさと捕らえて、尋問でも拷問でも
して、白状させた方がいいわね。最近の鑑識はプロファイリングデータが必要だから」
「前者はともかく、後者が出来る訳ねぇだろ?」
「じゃ、そこはそちらさんにお任せ。ただ、わかっていると思うけど、こういう事件には……」
「続きがあるんだろ? 俺がこの類いの事件をいくつ担当して、その関係でいくつお前さんを
怒らせたのか、忘れたとは言わせねぇよ。もちろん、俺が忘れた、ともな」
「ロンドンの切り裂きジャック……」
 そう呟いた京子に俺と加奈子は平然と頷くと、俺は新しい検死結果とおぼしき紙を数枚めく
ると、軽く唸った。
「ただ、現場を調べたあんたならわかると思うけど、これだけ頭が壊れているくせに、証拠ら
しい証拠はこの歯形だけ。目撃証言は取れたの?」
「そう思うか?」
 俺の言葉に加奈子は首を振ると、両手を肩の高さまで上げる。
「思わないわね。取れていたら、今頃ここには来ないものね」
「そう言う事だ」
 俺はそう言うとワイシャツのボタンをかけ直し、踵を返した。
「じゃ、歯形の件はわかったら、そっちに連絡するわ。あと、そっちの女の子に手を出すんじ
ゃないわよ」
「余計なお世話だ。行くぞ、片桐」
 京子は頷くと、俺の後をついて歩き出した。

「飯、食えるか?」
 俺の言葉に京子は思いっきり首を横に振る。
 まぁ、予測していた答えではあるが。
「だが、無理やりで良いから腹に何か入れておけよ。でないと肝心な所でミスをする」
「先輩の経験ですか?」
「まぁ、な」
 俺は苦笑しながら答えると上着のポケットからチョコレートバーを取り出す。
「こいつくらいなら食えるだろ?」
 俺がそれを投げると、京子は慌ててそれをキャッチする。それを確認してから俺はもう一本
ポケットから取り出して封を開ける。俺の体温のせいで微妙に溶けている。
「またしばらくこいつのお世話になるかと思うと、少々気が滅入るけどな」
「これ、先輩のお気に入りなんですか?」
 京子の方もそれを口にしながら俺に尋ねる。
「俺が新米の時にコンビを組んだ先輩が、よくくれたんだよ、そういう非常食っぽいやつ。ま
ぁ、今回はたまたまチョコレートバーだっただけだけどよ」
「……その先輩って言うのはどうしたんですか?」
 京子の言葉に俺は心の中で自分の失敗を舌打ちした。なぜか京子には――本人には自覚が無
いだろうが――何でも話せてしまうような奇妙な安心感と言うものが存在する。それが聞き込
みや取調べには非常に役に立つのだが……。
「……の中だよ」
 俺はわざと京子に聞こえないように小さく呟く。
「……え?」
「なぁ、片桐……。人には触れられたくない過去の一つや二つはあるもんだぜ? それでも知
りたければ、署内の俺と同期かそれ以上の先輩に聞くんだな」
 俺の言葉に京子は慌てて頭を下げる。その瞬間、車の無線から声が響く。
「はい、片桐です」
 京子が俺よりも速く無線に手を掛ける。
『おい片桐! そこに南雲はいるか!?』
 響く課長の声に俺が無線を受け取る。
「ここにいますよ。因みに運転中ですけど。で、何ですか?」
『今どこにいる?』
「えっと、中央通りから、じきに七号線に入って、署に帰るところです」
『だったら、そのまま中央通り沿いのウインダムという名前のラブホテルに向かえ!』
 課長の言葉に京子は回転灯を車の屋根に付け、俺はアクセルを踏み込む。
「わかりました。すぐに向かいます」
 俺はそう答えると、無線を切る。
「先輩?」
 京子の心配そうな声に俺は微かに頷く。
「多分、事件の『続き』だ。覚悟しておけよ」
 俺の言葉に京子は唇を噛み締めて頷いた。
 そして……。
 俺の予想は――うれしくも何とも無いのだが――外れる事は無かった。

「さすがに参った……」
 俺はそう言うと、椅子に勢いよく腰を下ろした。胃の中身が全てトイレの水と一緒に下水に
流れた後だ。重力に逆らう気力すらない。
「片桐、大丈夫か?」
 一応声を掛ける。もっとも大丈夫じゃないのは目に見えてわかっているが。
「大丈夫、です……」
 無理に声を出して、再びトイレの方に駆け出す。
「で、どうだった?」
 課長がコーヒーを両手に持って俺の傍にやってくる。
「ありゃ、ひどいですね。現場報告は読みました?」
「いや、先にお前の第一報告を聞こうと思ってな」
 課長の差し出してきたコーヒーを受け取ると、一口だけ口をつける。
「俺の第一報告って、聞いて気分悪くならないで下さいよ?」
「お前が吐き戻すところを見れば、気分が悪くなる程度は覚悟の上だ」
 課長がそう言い切ると、俺は思い出したくもない光景をゆっくりと思い出しながら、言葉を
極力穏便になるように気を付けながら、質問に答え始めた。
「死体があったのは回転ベッドの上です。で、その死体の内臓がわかる限り、全てバスタブの
中にありましてね……」
 そこまで言ってから、俺はもう一口コーヒーを含む。コーヒーですら吐き気を誘うがそれで
も何とか飲み込む。
「なんでしたっけ、あの薬品。死体保存用の。思い出したくないって、脳が勝手に記憶操作し
ているところですが……」
「……ホルマリンの事か?」
「あぁ、そう。それです。その――ホルマリンでしたっけ?――がバスタブ一杯に満たされて
いまして、そこに内臓が無造作に浸けられていましたね」
 課長の顔が見る間もないほど早く険しくなっていくが、それでも俺は続けた。
「後、脳みそは化粧台に叩き付けられている状態でしたね。はっきり言って、俺が鑑識だった
ら、冗談抜きで即日辞表コースですよ」
「そんなに酷かったのか?」
「今、課長は俺の報告だけで吐きそうでしょう? 俺たちはその現場にいたんですよ? 酷い
って言葉、生易しすぎです。鑑識のチーフが山下で正解ですよ、まったく。あいつくらいじゃ
ないですかね、表情には出さずに仕事できる奴は」
「そりゃ、大変だったな」
 課長の顔が心底そう物語っている。
「いや、俺はそれでも多少免疫ありますから、まだいいですよ。でも、片桐にはちょっと刺激
が強すぎると思いますよ」
「そう、だな……。お前が吐き戻すくらいだからな……」
「どう言う意味ですか?」
 さすがにむっとして言う俺に課長は俺の肩を叩く。
「別に他意はない。それと、片桐のメンタルケアもお前の仕事だからな?」
「俺は不器用ですよ?」
 課長は俺の言っている意味を知っているはずである。
「双方合意であるなら私は止めんさ」
 無責任な事を言う。まぁ、確かに、それが方法の一つである事も否めないのだが。
「あ、後、気になる点が二つほど」
「なんだ?」
「左足の膝から下が無くなっていました。それと、こう……」
 俺はこめかみのあたりから後頭部まで指をなぞる。
「頭蓋骨、と言うか頭部、と言うべきなのかはわかりませんが、頭の上半分が無くなっていま
したね」
 俺の言葉に課長の顔が更に険しくなる。
「で、同一犯人だと思うか?」
「十中八、九、同一犯人ですね。というより、あんな犯罪をする奴が所轄内に複数いてほしく
ないという、俺の願望も含めてですけどね」
 俺の意見に課長は同意する。
「後、水島から聞いた話だと、最初のガイシャの心臓には犯人の物と思われる歯形があったら
しいんで、鑑識はそっちの方から犯人の割り出しをしてくれるそうです」
 俺の言葉に課長は再び顔をしかめる。
「ああ、課長は水島が苦手でしたね」
「まぁ、な」
 あいまいに言葉を濁すが、加奈子が苦手だという人間の方が絶対に多いはずだ。食事中に仕
事の話をする事など当たり前。噂によると、あれの最中にもするらしい。ま、俺は加奈子を抱
きたいと思った事は無いから、その辺はわからないが。
「とにかく、今日はもう休ませてもらいますよ? でないと、体の方が壊れちまいますからね」
「ああ、ご苦労だったな」
「そいつは俺より片桐の方に言ってくださいよ」
 俺の言葉に課長は頷くと、帰り支度をはじめる。
「じゃ、仮眠室にいるんで、朝、着いたら起こしてください」
「ああ、出来るだけゆっくり眠れよ」

 無論『ゆっくり』眠れるはずなど無かった。京子は京子で脳裏に二つの場面が焼きついたら
しく、目も閉じられない、と言うし、俺も目を閉じればその光景が浮かび上がる。かくて、俺
と京子は夜を徹して昔話をする羽目になったのだった。
「……で、そいつは言ったんだ。人間が大きな決断をする時、そこには必ず二つの道が用意さ
れている。天国につながる道と、奈落の底に落ちる道との二つ。それ以外には無く、それ以上
は望めない、てな」
 俺がそう言うと毛布に包まったまま、京子はクスリ、と笑う。
「先輩はそれ、信じているんですか?」
「まさか。俺は、道はいつもひとつしかないと思っているよ。まぁ、喩えるのなら、舗装され
ていない道があるんだ。それをどう言う風に舗装するのかは、本人の自由だ。ちゃんと砂利を
敷き詰めて、アスファルトを敷くのもよし、そのまま放置していくのもよし。俺はそう思う」
 俺の言葉に京子は頷くと、俺が横になっている布団の上に腰を下ろす。
「強いんですね……」
 俺が強い? そんなことを言われたのは初めてだ。
「それに、優しい……」
 京子の言葉に俺は目を閉じると首を振る。
「そいつは違うな。俺は強くない。そう見えるのはそう言う風に振舞っているだけだ。優しく
感じるのはお前がまだまだ新米で、何をしでかすか不安でたまらんからだ」
 そう言った瞬間、俺の唇に何か暖かく柔らかい物が触れた。その感触に目を開けると、京子
の顔が間近にある。
「女が男の唇を奪うなよ」
 苦笑混じりに言う俺に京子は髪を掻き揚げるような仕種で答える。
「後、これからどうなっても知らんぞ?」
 俺の言っている意味を悟って、顔を真っ赤にして頷く。
「初めての相手が俺でいいって言うのなら、それから初めての思い出が、こんな無粋な場所で
いいのなら、俺は構わんぞ」
 俺の言葉に僅かに考えるように指先を口元に当てる。
「……私も、構いません……」
 ほんの微かに俺の鼓膜を揺する程度の小さな声。
「どんな場所でも、初めてが好きな人となら、きっと素敵な場所になります」
 恥ずかしい事を言う奴。
「惚れるなよ、こんな男に……」
 俺がそう言うと、京子はこれ以上に無いと思える程に優しい笑みを浮かべていた。
「そういう人に憧れるの、ロマンがあると思いませんか?」
「そうか? 俺にはわからん感覚だな」
「私、先輩を好きになっちゃいました」
 その告白に俺は小さく頷くと、京子の身体を抱き寄せていた。そして、京子が静かに目を閉
じると同時にその唇に自分のそれを重ね、視線だけで京子の意思を確認する。響子が頷いた瞬
間、俺は京子と男女の関係を結んでいた。京子が俺の肩に頭を預ける様に眠りに入ると、俺は
その寝顔を静かに鑑賞し始めていた。

 俺はそのまま、外で雀が鳴き出すまで目を閉じることは無かった。

「ん……」
 京子が寝返りをうち、その拍子に目を開ける。
「おはよう」
 俺の言葉に京子は慌てて起き上がると、乱れた髪を慌てて押さえる。
「せ、せ、先輩!?」
 かなり錯乱しているのだろう。京子はあたふたしながら掛け布団をたたみ始める。
「お前、慌てると、先に布団をたたむのか?」
 俺が呆れた風に口を開くと、京子は一糸纏わぬ自分の姿に気付き、大急ぎで下着やら洋服や
らをかき集め始めた。
「い、い、い、いつから、起きて、たんですか?」
 京子の言葉に俺は時計を指差すと意地の悪い笑みを浮かべる。
「午前三時から」
 瞬間、京子の顔が真っ赤に染まる。
「かわいい京子ちゃんの寝顔をずっと観察し・て・い・ま・し・た」
 京子の口調を真似してからかう俺に、京子は耳どころか、全身真っ赤にして縮こまる。
「……せんぱい、ひどいです」
 小さな声で呟く京子に、俺は笑うと、京子の頭を軽く叩く。
「お前の言う『ロマン』に、こういう光景はないのか?」
 さらに追い討ちを掛ける俺に、京子は敷布団の上に右手で『の』の字を書き始める。
「そ、そりゃ、たしかに、無い事は無いですけど……」
 どんどん小さくなる京子に俺は大きな声で笑うと、京子の頭をもう一度叩いた。
「冗談だよ、冗談」
「……どこから冗談なんですか?」
「そうだな。おはよう、からかな?」
 ジト目で俺の方を見る京子に答える。
「それって、全部冗談って事ですか?」
「そうとも言うかな」
 俺の返事に拗ねたように京子は布団をたたみ出す。
「あれ? 京子ちゃん? 怒ったのかな?」
「照れているんです!」
 怒鳴って返す京子に俺はもう一度笑うと、顔を引き締める。
「さて、片桐。今日は鑑識に回った後、もう一度現場検証に向かう。それと、十二時から捜査
会議だ。それから……」
「不審人物の目撃証言をもう一度洗いなおし、ですよね?」
 俺の口調に京子も真顔に戻って答える。
「そうだ。後、念のため、銃は携帯しておけ」
「銃、ですか?」
 京子の表情が途端に強張る。
「ああ。もし、今日中に犯人まで辿り着いたとして、こういった殺人犯は凶器を持ち合わせて
いる事が多い。身を守る為に銃を持っていけ。それと、マニュアル通りの威嚇射撃はするな」
 俺の言葉の意味が掴めていないのか、京子はキョトンとしている。
「犯人は殺すな。だが、威嚇射撃をしたせいで自分が殺させるような事があったら、それはそ
れで馬鹿だ。そう言う事だよ」
 俺はそう言うと仮眠室から出た。

「あら、いらっしゃい」
「よく来たな」
 俺達の顔を見て加奈子と山下が面白くなさそうに口を開いた。
「ご挨拶だな」
 俺の言葉に加奈子は俺に書類を叩き付けるように渡す。
「おいおい、一応は資料だろうが。丁寧に扱え、丁寧に」
「お前さんが昨日の夜に持ってきた仏さんのせいで、俺達は一睡もしてないんだよ」
 山下が加奈子の行動をフォローするように耳打ちをしてくる。
「わかったよ。水島は寝不足になると不機嫌になるからな。今回は俺の責任でいい。だが、そ
れと書類をぞんざいに扱っていい事は話が別だ」
「ぞんざいに扱いたくなるわよ、その、読み返して情景が浮かんでくる書類は」
「わかった、わかった。お前らの仕事には感謝しておくさ」
 俺がそう言うと、加奈子は指を二本立てた。その仕草に頷く俺と、気の毒そうな表情を浮か
べた山下に、京子は不思議そうな顔をした。
「とりあえず、後日、飯が食えるまで回復したら、二万のコース料理だ。財布が痛いがな」
 俺は京子にそう補足説明をすると、書類に軽く目を通した。
「で、犯人の割り出しはできたのか?」
「そこに書いてある」
 つっけんどんな言葉に俺は溜息をついて、書類をじっくりと読み返した。
「新谷、満……? どこかで聞いたことのある名前だな……」
 そう呟きながら俺は被疑者の経歴を読み始める。
「現住所、都内の某マンション。犯罪歴、無し……?」
 俺の横から覗き込んでいた京子が声を出す。
「よく、こんな人物が浮かび上がりましたね」
 京子の意見に俺も頷く。
「ああ、犯罪歴は無いが、そいつの資料は在った」
 山下の言葉に俺は顔を上げる。
「ほれ、五年だか六年前。お前さんが新米だった頃、ジャンボジェットが墜落した、ハイジャ
ック事件があっただろう?」
 言われればそんな事があったかもしれない。
「その時に生き残った中の一人さ」
 だが、そんな事だけだったら俺の記憶に残るはずが無い。五、六年前といったら、俺にとっ
て忌まわしい『あの事件』があったからだ。
「それだけじゃないだろう?」
「ああ、もともと画家の卵だった新谷は、最近画壇を騒がせ始めている」
 その言葉に俺はようやく納得がいった。
「なるほど、どこかで聞いた事のあると思ったら、そう言う事か」
「先々月のアートマガジンに載っていましたね、その人の記事」
 そう。京子が読んでいた雑誌に載っていたのだ。
「で、住所までは調べてあるが、今、そこにいるかどうかまではわからん」
 そこまで言うと、山下は俺の背中を叩く。
「ここから先はお前さん達捜査課の仕事だろ?」
 その言葉に頷くと踵を返し、そこを後にした。
「あ、ちょっと待って、片桐さん、だったわね?」
 もとい、後にしようとした。突然かけられた声に京子は慌てて振り返ると、手招きする加奈
子の傍に近付く。
「ああ、山下君。そいつ連れて十分くらい散歩して来て。女同士の大事な話があるから」
 その言葉に山下は頷くと、俺の背中を押す。
「おい、水島。片桐に妙な事吹き込んだら、ただじゃおかないぜ!」
 無駄だとわかっている事を一応口にすると、俺は山下に連れられて外に出た。
「おい、南雲」
 しばらく歩いた後、俺の顔を見て山下は口を開いた。
「なんだ?」
「今日は、銃を携帯しているんだな」
 その言葉だけで山下の言いたい事がなんとなくわかる。
「抜かないよ」
 俺が苦笑混じりに言うと、山下は俺の胸を小突く。
「嘘言ってんじゃねぇよ。お前と何年、付き合ってると思うんだ?」
 抜かないんじゃなくて、抜けないんだろう、山下の目がそう言っている。
「大学で三年と、お前がこっちに転属されてからの二年。合計五年だな」
 俺が指を折って数えると、山下は溜息混じりに頷く。
「抜いても構わん、俺はそう思っているよ。だが、無理に抜けばお前は『壊れる』だろうな」
 言っている事が痛いほどにわかる。
「もう、いいかげん、副島さんの事は忘れろ。あれはお前が悪いんじゃない」
 何度この言葉を言われただろうか? 何人にこれと同じ言葉を言われたのだろうか?
――あれはお前の責任じゃない。
 俺は誰彼ともなく繰り返されて来たその言葉に、自嘲の笑みを浮かべると首を横に振った。
――俺に忘れる事が出来るかよ。
 口には出さずに反論した俺を見て、山下の表情が険しくなった。
「どうして、お前はそうまで自分を責める!」
 山下の怒声に俺は両手の平を差し出す。
「俺が……忘れちまったら、俺はただの人殺しだ」
 俺の言葉に山下は咽喉を鳴らした。俺は初めて『その言葉』を他人に零したのだ。
「例えどんなに正当性があったとしても、例えどれだけ倫理的に間違っていなくても、この手
で『人を殺した』という、その重みを忘れちまったら、その罪を無くしてしまったら、俺はき
っと副島さんと同じ道を歩んでしまう」
 誰にも『話した事の無い』本音。誰にも『近付かなかった』理由。そして、誰をも『近付け
なかった』意味。
「初めてだな。本音を話してくれたのは」
 山下の言葉に俺は頷く。
「あの新米の嬢ちゃんの影響か?」
 多分そうなのだろう。俺は頷くと時計に目を落とす。
「十五分経った。そろそろいいんじゃないか?」
 山下が頷くのを確認して、俺は京子と合流すると、事件現場へと急いだ。

「さっき、水島に何吹き込まれた?」
 現場検証を終え、署に戻る途中で俺は口を開いた。
「は?」
 ジッとうわの空で俺の事を見ていた京子は俺の言葉が意外だったのか、かなり間抜けた声を
上げる。
「何を話していたんだ、と聞いている」
 俺はやんわりと尋ねる。別に強制しているわけじゃない。京子が話したくないというのなら
それについて追求するつもりは無い。
「先輩の……過去……」
 だが京子は律儀に答えた。
「先輩の、傷についての曰くを……」
 まるで悪戯の見つかった子供のような表情をする京子に俺は静かに笑った。
「軽蔑したか?」
 俺の言葉に京子は力なく首を横に振る。
「いえ……私、先輩の事、何も知らないんだと思って……」
「知らなくて当然だ。お前が捜査課に来て、まだ四ヶ月とちょっとだぞ?」
 京子は、そうですね、とかすかに微笑む。
「なぁ、京子……」
 初めて仕事中にもかかわらずに『片桐』では無く『京子』と呼んだ。その言い方が意外だっ
たのか、京子は返事をした瞬間、え、と声を上げる。
「男は『身体』を抱き、女は『心』を抱くって知っているか?」
 俺の言葉に京子は首を振る。
「副島さんの口癖だったよ。あの人は精神的に参った事件を解決すると、必ずそう言って恋人
の所へ行ったんだ」
「副島さん?」
 名前までは加奈子から聞いていないのだろう。俺は頷くと、昔の相棒だよ、と付け加える。
「男は辛くなると、女に心を抱いて欲しくて求めるんだそうだ」
「心、ですか?」
「ああ、見た目が強くても、男は意外と脆いんだとさ。だから、精神のバランスを保つために
心を抱いてくれる女が欲しくなるんだと」
 俺の言葉に京子は首をかしげると、俺の横顔をジッと見つめる。まぁ、言いたい事はなんと
なくわかるが。
「なんだ?」
「先輩は、見つけたんですか?」
 予想通りの言葉に俺はウィンカーをあげ、車を車道の端に停める。
「先輩?」
「見つけた、と言ったらどうする?」
 その言葉に京子はビクッと反応する。
「どんな、女性、ですか?」
 声が上ずっている。
「そうだな……」
 俺はゆっくりと京子の身体を見ると、言葉を続ける。
「年齢は二十三で髪型はシャギーで少しだけ色を抜いている。そうだな、スリーサイズは上か
ら八十四、五十九、八十七、といったところかな……。少し着痩せするタイプの人間で、職業
は……」
 そこまで言って京子のものすごい視線に気付き、言葉を止める。
「先輩、今、私の事見て、かなり適当な事を言ってませんでした?」
 まぁ、気付かない方が鈍感だと言うものだ。
「それと、私、ウエストは五十七です……」
「いいじゃないか二センチくらい」
「女の子にとってウエストの二センチは命の次に大事なんです!」
 京子の剣幕に俺は大きく溜息を吐く。
「あ、今すごく失礼なこと考えませんでした?」
「別に」
――女の子という歳じゃねぇだろうが。
 一瞬だけよぎったその考えを慌てて消すと、俺は平静を保って再び車を発進させる。
「私でよければ、いつだって、先輩の心を抱いてあげますよ」
 発進させた瞬間を狙ったかのように京子がそう呟く。
「バカ、五年は早いよ」
 俺はそう言うと胸ポケットからタバコを取り出して、口に咥えた。

「で、こいつの居場所は突き止めたのか?」
 課長の言葉に俺は首を縦に振る。
「確たる証拠が無い以上、令状が出せないのはわかっています。ですから、とりあえず職務質
問と、出来たら任意同行をしてもらいます」
 俺がそう言うと課長は露骨に嫌そうな顔をする。
「で、クロならいいが、シロだったらどうするつもりだ?」
 課長の言いたい事はわかる。ただでさえ最近は警察の不祥事が多い。自分の所轄では不祥事
を出したくないと言う、署長の本音が課長の本音とかぶっているのだろう。それに、最近画壇
を騒がしている、と言うような人間ならば、不祥事は一般人に比べ、大きく報道される。それ
はどんな国にいようが変わらない法則の一つだ。有名人を相手に誤認逮捕などはご法度、そう
言い切れるほどに、警察は体裁を気にする。
「シロならまだいいですよ。その時は俺が責任取ります。なんでしたら、今のうちから辞表を
書いてもいいですよ」
 だが、どれだけの有名人であろうと、危険人物を野放しにしておくのは、やはり警察の不祥
事でしかない。
「ですが、クロの時はどうするつもりですか? また罪の無い一般市民が巻き添えになるんで
すよ?」
 はっきり言って脅しである。それがわかっているのだろう。京子は何か言いたそうに俺と課
長のやり取りを見ている。
「お前はいつもそうだな。まるで副島の若い頃を……」
 課長はそこまで言うと口を噤んだ。課内全体が『副島』と言う名前に反応して、空気が重た
くなる。
「そりゃ、そうですよ。半人前だった俺に、捜査と刑事魂のイロハを教えてくれたのは、他で
もなく、副島さん本人でしたからね」
 俺の言葉に課長は息を呑む。俺はその様子を見て溜息をつくと、踵を返した。目線の先に何
人かの同僚が映るが、俺と視線が合った瞬間、その目を逸らす。
「南雲……」
 俺の背中にかかる声に俺は首だけ向ける。
「まだ、なにか?」
「……いや、お前は……」
 お前は副島のようになるなよ。課長の口がそう動いたように見えた。
「俺は、刑事ですよ」
 俺はそう言うとゆっくりと歩き出した。
「あ、待ってください! 先輩!」
 後ろから京子の靴音が続いた。

「まるで腫物に触るかのような反応だったろ?」
 俺は車に乗り込むと、遅れて来た京子にそう尋ねた。
「副島さんて、どんな人だったんですか?」
 聞いてはいけないとわかっていて聞いているようだ。
「ここから先は俺の独り言だ。だから出来れば聞き流して欲しい」
 俺はそう前置きすると車のエンジンをかけた。
「副島さんと俺は、ちょうど今の俺と京子のような関係だった。新米で半人前にすらなれてい
ない刑事と、そこそこ事件を解決してきた中堅の刑事。副島さんは当時うちでは一番の優秀な
刑事だった。俺と組んで初めての事件の時、俺が大きなミスをしてな。強盗殺人の犯人にナイ
フを突きつけられた。怖くてよ、何をしていいのか全くわからなかった。その時、副島さんが
助けてくれたんだ。だから、俺にとってあの人は刑事としての俺の師匠であり、命の恩人だっ
たんだ」
 俺は車を走らせながら言葉を綴った。京子は俺の話を黙って聞いている。
「そんなこんなでいくつかの事件を解決して、俺もどうにか刑事として一人前になりかけたと
言えるような時、あの事件がおきた」
「……先輩の、胸と心に傷をつけた事件ですね」
 京子の拳が強く握られているのを確認する。
「ちょうど、今回みたいな『猟奇殺人』が起きた。今回ほどひどくはなかったがな。そして犯
人は、こともあろうに副島さん本人だった」
「どうして、ですか?」
「副島さんはこう言っていた。俺はこの刺激がなくては飯も咽喉を通らねぇんだ。それは本音
だったんだろうな。付き合いがそんなに長くない俺でも、そうわかっちまった。副島さんはい
くつか、殺人事件を解決していくうちに、人間の血を見て興奮する自分に気付いちまった。そ
れが女を抱くことで抑えられている間はよかった。だが、人間の歯車は、いったん狂い出すと
二度と元には戻らない……」
 何故、俺はこんな話をしているんだろうか?
「あの夜、俺は、副島さんに呼び出されて一人で港に行った。そして決闘さ」
 道路の脇に車を停めると、俺はおどけたように両手を広げる。
「ばかばかしいだろ……? このご時世に決闘だぜ? お互い銃を持ってよ、たった五発の弾
丸で、決闘だぜ……」
 泣いていた。いつの間にか、俺はハンドルを抱え込むようにして涙を流していた。
「副島さんの銃口が俺の胸に、俺の銃口が副島さんの眉間に触れたんだ。そのまま俺達は長い
時間、睨み合ったよ。いや、もしかしたら、五秒程度の短い時間だったのかもしれない。そし
て俺達は同時に引き金を引いたんだ」
 俺の頭を優しく抱かえ込む京子の温もりがやけにうれしかった。
「だけど、副島さんの銃は貫通性の高い、殺傷力の低い弾が込められていた。俺の胸を貫通し
て、弾は体内に残らなかった。そして俺の撃った銃弾は寸部も違えず副島さんの眉間を打ち抜
いた。当たり前の事を言うかも知れんが、副島さんは即死だったよ」
「苦しかったんですね……」
 京子が泣きながら俺の頭を抱きしめた。
「俺が、殺したんだっ!」
 子供みたいに泣きながら、俺は叫んでいた。
「先輩が……遼平さんが悪いんじゃない!」
 京子の大きな声に俺は首を横に振った。
「悪くないのかもしれない。だが、俺の罪だ……」
「だったら、もう充分に苦しんだじゃないですか……」
 俺はゆっくりと京子の顔を見上げた。
 そこにはまるで自分の事のように両目を真っ赤にした京子の笑顔があった。
「京子は……優しいな……」
 ようやく気付いた。俺はこいつに、自分の心を受け止めて欲しかったのだ。
「先輩が好きだから」
 京子の言葉に身体を起こすと、ハンドルを握りなおす。
「……行こうか、犯人逮捕に」
「はい!」
 俺は車を発進させる。
「なぁ、京子……」
「なんですか?」
 俺の小さな呟きに反応する京子。
「いや、その、なんだ……。すまなかったな、下らない昔話を聞かせてよ……」
 おかげで楽になったよ、と心の中だけで続ける。その言葉を理解したのか、京子は、はにか
んだような笑みを浮かべると、視線を下に落とした。

「本当にここか?」
 俺は溜息を吐いた。
「ええ、メゾンパトリシア。ここで間違いないみたいですね」
 京子は何度もメモを見直して確認する。
「絵って儲かるんだな」
 俺の言葉に京子は同意するかのように頷く。
「油彩のオリジナルって、人によっては百万単位で取引されるんですよ?」
 京子はそう言うとやや緊張した面持ちで管理人室の方に歩き出す。
「おい、ちょっと待て!」
 俺は京子を呼び止めると、京子の耳に口を近付ける。
「なんですか?」
「上手く犯人逮捕できたら、夜明けのベイサイドでもどうだ?」
 俺がそう言った瞬間、京子の顔が真っ赤に染まる。
「な、な、な、何言ってるんですか! この重要な時に!」
「重要な時だからだよ」
 動揺する京子に俺は小さく笑う。
「考えても見ろ。当たりだったら、相手はあれだけの事件を犯す凶悪犯だぞ? 今のお前みた
いにガチガチに緊張してちゃ、逮捕は難しいだろうな」
 俺の言葉に京子は小さく声を上げる。
「で、どうだ?」
「……ハイ……」
 顔を真っ赤にして頷く京子の頭を軽く叩くと、俺は京子に裏口の方に回るよう指示をする。
「もし、銃声がするか、二時十五分になっても何の連絡がない場合、お前は携帯で署に連絡を
つけろ。それと、もし新谷が裏から逃げ出そうとしていたら躊躇せずに銃を使え」
 俺の言葉に京子は頷く。
「よし、時間合わせだ。今、俺の時計が二時三分前」
 俺の言葉に京子は時計の針を合わせる。
「よし、いくぞ」
 俺はそう言うと管理人室の窓を叩いた。
「あん? 何か用かい?」
 いかにも管理人、というような顔をしたおばさんが俺を出迎えた。
「新谷満さん、ご在宅かい?」
 俺がそう尋ねると管理人のおばさんはウンザリしたような顔でネコか何かを追いやるような
仕草をする。
「新谷さんはご在宅さ。だけど兄さん、どうせサインでも貰いに来たんだろ? どう見たって
画廊や雑誌記者には見えないからね」
「いい勘してるね、おばさん」
 俺はポケットから警察手帳を取り出す。
「たしかに俺は画廊や雑誌記者じゃない。刑事だからな」
 俺はそう言うと『警視庁』とクッキリ書かれた手帳を見せる。
「で、新谷さんはご在宅だったな?」
 俺の言葉に管理人のおばさんは両手を広げると頷く。
「そこの奥、一○八号室だよ」
「ご協力感謝します」
 俺は僅かに頭を下げると、ホルスターのボタンを外す。
 一○八号室の前まで来ると呼び鈴を鳴らして中の様子を探る。だが何度呼び鈴を鳴らしても
中から返事はない。
――感づかれたか……?
 たまにいるのだ。やけに勘のいい奴が。見張りを立てている訳でもないのに、警察が近付く
と途端にその気配に気付く奴が。
 俺は焦りを感じて玄関のドアを勢いよく開ける。中から漏れてくる腐臭と、何かの薬品の匂
いに一瞬だけ息が詰まった。
「……警察だ!」
 俺がそう言った瞬間、すぐ裏手で銃声が一回響いた。
――京子!
 俺は弾かれたように部屋を抜け、開きっぱなしの窓から外に身を投げる。
「おやおや、もう片方は男だね」
 やけに明るい声が俺の耳に届いた。
「京子ぉ!」
 そこには羽交い絞めにされ、咽喉元にナイフを当てられている京子の姿があった。
「せん、ぱい……」
 京子の声が震えている。
「新谷、満、だな……?」
 俺の言葉に京子の後ろにいる男は頷いた。
「京子を離せ」
「嫌だね。この女は僕の人質さ。人質の命を助けたかったら、銃を捨てるんだね」
 新谷の声に追い詰められた様子はない。無論、開き直った様子もない。
「……わかった。銃を捨てればいいのか?」
 俺はそう言うと手にしていた銃に安全装置をかけると新谷の方に放り投げる。
「昨日見つかった、二つの死体。あれはお前がやったのか?」
 新谷の挙動を一つも見逃すことないよう注意を配りながら俺は質問する。
「死体……? 何のことだい? 僕は芸術を残してきただけだよ」
 笑顔さえ浮かべながら言う新谷に俺は微かに震えた。
「何故、殺した……?」
 まともな答えなど返って来ないとわかっていながら俺は尋ねた。
「芸術に犠牲はつきものだよ」
 新谷は笑みを崩さずに言う。
「まぁ、真の芸術は俗人には理解できないだろうから、僕は怒ったりしないけどね」
「だが、それが犯罪だと言うのは知っているんだろう?」
 だから、俺達が近付いたのを知って逃げた。
「そうだね。僕の芸術を君達は犯罪だと言うだろう事は承知していたよ。真の芸術と言うのは
いつも後世になってから理解されるものだからね」
 完全に狂っていやがる。俺は心の中でそう舌打ちした。
「オヤ、その顔、僕の事を狂っている、そう思っているね?」
 新谷は面白そうに呟く。
「でも、本当に狂っているのは僕かな? それとも君達かな?」
 瞬間、俺の古傷がズキン、と響いた。
 そして、脳裏に『あの日』のことが思い浮かぶ。
――本当は、銃で人を殺したかったんじゃないのか?
――副島さんの銃は殺傷能力が低い事を知っていたんじゃないのか?
 その二つの想いが俺を……狂わせていく。これを何度か繰り返せば、俺もいつか、狂う事が
出来るかもしれない。
「せんぱい!」
 叫ぶ京子の声がやけに遠くに感じる。
「……君は僕と同じなんだね」
 新谷の声がやけに耳元に感じる。二人とも俺からは同じ程度の距離しか離れていないはずな
のに。狂う事が望ましく感じていた。狂う事で『罪』から逃げられるというのなら、それでも
いいかもしれない。
「僕はあの事故で真の芸術に目覚めた。君は何で――そして、何に目覚めるんだい?」
――ナニデ、目覚メルンダイ?
――ナニニ、目覚メルンダ?
 その声が頭の中で繰り返される。
「せんぱぁい!」
 京子……?
――俺は、刑事ですよ。
 そうだ、俺は刑事だ。
――副島のようになるなよ。
 副島さんは俺が殺した……。
――苦しかったんですね……。
 そう、苦しかった。
――私でよければ、いつだって、先輩の心を抱いてあげますよ。
 京子のおかげで、救われた。そうだ、京子のおかげで、俺は『狂わずに』いられる。京子と
俺は短い時間しか共に過ごしていないくせに、それでも尚、京子の温もりは何物にも代えがた
いと感じた……。俺は『それ』に気付くとゆっくりと二人に近付いた。
「く、来るな!」
 新谷の声が響く。
「京子……」
 俺は京子の名前を呼んだ。
「先輩……」
「一生モノの傷がついたら、俺が嫁に貰ってやる。もし、お前が死んだら、俺も後を追う。だ
から、俺に命預けてくれるか?」
「先輩を信じます!」
 俺の言葉に京子は小さく、しかし力強く答えてくれた。
「うおぉぉ!」
 俺は一瞬の隙も与えずに新谷に飛び掛っていった。

 思ったより事件は簡単に解決した。新谷の部屋の奥にあった、ホルマリンの満たされたバス
タブの中に、無くなった被害者の臓腑が漬けられ、冷凍庫には被害者の足と頭皮が保存されて
いた。それが決定的な証拠となり、新谷満を殺人、死体遺棄と言う二つの罪状で逮捕する事に
成功した。だが、恐らく新谷が法で裁かれる事は無いだろう。あれだけ常軌を逸した殺人を犯
した人間に『精神異常』と言う判断が下されないわけが無い。そして俺達は事件の調書と始末
書の山を片付けるのに一週間かかった。

「……せんぱい?」
「二人きりの時はその言い方は止せ」
 湾岸沿いのホテルの一室。
「遼平さんって呼ぶの、恥ずかしいんですよ」
 京子は照れたように俺にもたれ掛かってくる。
「で、何考えていたんですか?」
「別に」
 首筋に腕を絡ませながら聞いてくる京子に、俺は適当に言葉を濁した。そんな俺の態度に京
子は頬を膨らませる。
「また仕事のことですか? 今日は刑事だって事は忘れて楽しむ、そう言ってたじゃないです
かぁ……」
「そうだな」
 俺は頷くと、京子をベッドに押し倒す。
「ちょ、せんぱい……?」
「俺、お前に約束したよな?」
 不意に思い出した一言を京子に投げかけた。
「え?」
「いや、お前が忘れた、そう言うなら反故にしてもいいんだけどな」
「もしかして、私に一生モノの傷が付いたら、と言うやつですか?」
 笑みを浮かべる京子に、俺の方が照れくささを感じていた。
「あぁ、それだ」
「もう、一生モノの傷、付けられた後ですよ、遼平さん」
 なんとなく気付いていたのだろう。京子はそういう事には無自覚で鋭い。
「そうだな。お前の初めてを貰っちまったからな」
「一生モノの傷、もうこれ以上、他の人に付けたりしないでくださいね。じゃないと、私、遼
平さんの心を抱いてあげませんよ」
「なぁ、京子」
「なんですか?」
 京子の髪を右手の中で弄びながら口を開いた俺に、京子は軽く叩く様にして答える。
「この前、俺とお前の関係を俺と副島さんみたいな関係だと言ったの覚えてるか?」
 京子はコクン、と頷く。
「だけど、考えてみたら全然違ったな」
 俺の言葉に京子は首を傾げる。
「新米の半人前刑事と、そこそこ事件を解決した中堅の刑事。どこが違うんですか?」
 京子は俺の指に自分の指を絡ませる。
「そうだな。俺は男で、お前は女だって事だ」
 俺はそう言うと京子にキスをする。
「俺は副島さんの心を支えられなかった。男だからな。でも、お前は、本当の意味で俺の心を
抱いてくれる。それだけで俺は副島さんのようにならないでいられる」
 俺の言葉に顔を真っ赤にする京子にもう一度俺はキスをする。
「初めて会った時、こんな頼りない女に俺のバックアップを任せられるか、そう思った」
 その言葉に京子は拗ねたように唇を尖らせる。
「少し面倒を見て、一人前の目処が立ったら誰かに押し付けようと思っていた」
「本当ですか?」
 京子の言葉に頷く。
「俺がお前に見た刑事の才能は、聞き上手ってだけだったからな」
「それ、ひどいですよ」
 わかっている。だが、事実なのだからしょうがない。
「けど……」
 頬を羽で撫でられるようなむず痒さを感じる。
「けど、なんです?」
 京子も俺が何を言いたいのかなんとなくわかっているのだろう。俺の口から続きの言葉が出
るのを待っている。
「今は、ずっとコンビを組んでいたいと思う……」
 いざ口にするとかなり気障な台詞だったかもしれない。
「プロ、ポーズ、ってやつですか、それ?」
「……そうはっきり言われると照れるがな」
 俺は京子の顔を見ない様にしながら答える。
「今すぐに返事をくれとは言わない。お前が俺とこれ以上組むのは嫌だと言うのなら、それも
構わない。俺の勝手に誰かを縛るのは、誰かに縛られる以上に好きじゃない」
「遼平さん、ひどいですよ……」
 京子が俺の胸板に耳を当てる。
「私が、嫌だって言うと思ってるんですか?」
 そこまで言うと京子は窓を指差す。俺が窓の方を見ると、ちょうど水平線から光が漏れ始め
ていた。
「こんなロマンチックな場所で、好きな人にプロポーズされて、断れるほど、私は鈍感じゃな
いです」
 そう言うと、京子は俺の唇に自分のそれを重ねてきた。
「今度、指輪を買ってくださいね。どんな物でも、一生の宝物にしますから」
「あぁ、そうだな。この歳まで特定の女を作らなかったせいか、その程度の預金は充分すぎる
程にある」
「もう。またロマンの無い事を言うんですから。そういうところ、治した方がカッコいいと思
いますよ、遼平さん」
 ロマンと言う言葉を使いながら怒る、そんな京子が俺にとって、一生の宝物になるような気
がしてならなかった。

                                    〈了〉


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